2018年3月7日水曜日

わがままな話を、ひとつ


 過日、名古屋北支部の元支部長。公嘱協会の副理事長を務められた私の最も大切な恩師、筧久俊氏のことを書かせてください。

筧先生は、平成291121日。満69歳にて永眠されました。

昭和46年に法務局の仕事を経て、筧事務所を開業され、平成16年より、イデアの名にて数多くの仕事を片付けられてこられました。若い会員の方々にはイデアグループとご紹介した方が分かり易いかと。

 久俊先生とは、地元の先輩でもあり、昭和58年開業の若僧、伊藤直樹26才は、当時の成沢千勝元名誉会長が会長をなされていた頃にて、例えば赤坂操本局支部長(元公嘱協会理事長でもあられます)の指令のもとに、厳しく報酬額指導が、各支部毎に行なわれていましたが、そんな折に初めてお話しする機会を得ました。

 

ご本人の名誉の為、先輩が指導に呼びだされた訳ではありません。そして直樹は、見事、呼び出され、叱られました。叱られること自体、当時、意味がよくわかりませんでした。年間500件以上の年計報告書を提出したところ、いかにこのようないい加減な業務処理をやっているのか!と、支部役員の方々からの教育的指導。

年計報告書、領収書控綴り、事件簿をならべた事務局の机を前にして、ほぼ土下座状態の私・・・。

その指導中、「直樹君。仕事はやれるだけ頑張れよ。事後処理は又、教えてあげるから。」と声をかけていただいたのが、当時、区分登記受託もガンガンされていた筧先輩でした。

 

 報酬額が自由化となった平成14年。先輩は、愛知県内でも一早く法人化を選択され、「直樹はどうするの。」と声をかけていただきました。2回目の副会長へと戻る気はないかと中原元会長にお声がけいただいたのも、翌年のことでした。

 15年以上前に行なわれていた全国の土地家屋調査士の報酬額指導は、全くの私見ですが、かなり業界のひとりよがりだったと今でも思います。わかりにくい話ですが、自分は30才前後、100件でも200件でも測量の現場にかけつけていました。土、日。年末のおおみそかも、雪上のお寺と、墓地を区分けする為の名古屋市内:確定測量へと取り組んでいたものです。

 土地家屋調査士として全力投球していることが、何故、支部長や成沢会長に怒られるのだろう。時は、バブル。昭和の代の末から平成初めにかけて、市街地の確定測量の処理については、隣地との境界確定の説明上、坪50万、150万、1000万、5000万+α・・・という平成30年の今では、理解不能の地価を説明する必要を迫られていました。

 現在、報酬の維持、いや報酬アップに向けて、報酬額を監督官庁から隣有地権者と決めつけられない以上は、報酬自由化となって、既に15年以上経過しました。

 この報酬について現在では、低廉化、ダンピング等、マイナス面が見受けられる中で、筧先生はいつも法定報酬時代の請求根拠をもとに、きっちりとした報酬をもらわないといけない、と繰り返しつぶやいておみえでした。

 

 かつてお叱りをうけていた私だからこそ、会長として、報酬に関して機会ありごとに発言していきます。

 

 昔のように筧先生からの助言をいただくことは出来なくはなりました。昨今の市況は、想い出に浸っているだけで打開出来るような状況ではありません。

 

他にも、この1年余に先輩会員の訃報に接します。

その中で筧先生からいただいた「前向きに取り組め」という言葉を私なりに継続していくことが務めであると認識し、すべての方々のご冥福をお祈りしています。